100年愛された学校
学祖・河口アイ
1873(明治6年)- 1959(昭和34年)
教育に人生をかけた学祖・河口アイ
学祖・河口アイは、1873(明治6年)10月6日、熊本県山鹿市山鹿町に生まれる。武家出身の父は西郷隆盛の下で国事や政治に奔走し、茶を商う家に生まれた母が、その経済的能力の高さで家計と生活を支えていたという。祖母は厳格な教育者で、特に和裁については厳しくアイに指導した。幼少期から厳格な女性教育と、社会で活躍する女性の姿を身近に見てアイは育っていく。
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- 男尊女卑の風潮の中、向学心に燃える
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町に高等小学校ができ、アイは高等科3年に入学した。入学時は3名いた女子もそのうちアイだけとなり、男子にいじめられることも多かったが、言うべきことは言い、耐えるべき時はじっと我慢することの必要を体得する。その後、アイは女学校へ進みたかったが、両親の同意が取れなかった。アイは3日間飲まず食わずで部屋に引きこもり、祖母が取り合ってくれてようやく親も進学を許した。独りで32キロ離れた熊本市まで歩き、10日間かけて、自ら学校を探して手続きを済ませ、明治22年9月から女学生として勉強を始めた。明治24年には女学校を卒業し、中富小学校に勤務することとなる。
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- 東京家事裁縫研究所・小石川高等女学校創設
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日清戦争・日露戦争を乗り越え、日本を転々とする。夫の死後、子供の教育のため、京都にとどまることを決意し、生活を支えながら小学校の裁縫の検定試験を一度で合格、小学校の教員を務めながら勉学に励み、中等学校の教員免許を取得。苦しい生活の中で女手1つで子供を育て、女性教育の必要性・女性の社会的地位の向上の必要性を痛感し、大正2年に上京、大正5年に東京家事裁縫研究所を設立、大正12年に小石川高等女学校を創設した。(1年生80名、2年生20名で発足した。)
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- 女性の権利を主張―婦人参政同盟誕生
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大正12年、多川すみ子、十文字琴子、萩野千代子と共に、婦人市政研究会を創設し、同年、婦人参政同盟会が誕生し、13年にはその理事長として活躍した。参政同盟の役員には、山根菊子、田中千代、赤松玉子、鳩山薫子などの各氏がおられた。これらの運動は、戦前の日本において、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。
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- 世界から求められたアイの教育論
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大正12年におきた関東大震災による校舎半壊と、実父の死去により、夜も眠れぬ日々が続くが、当時のアイの教育論に賛同した各著名人から寄贈された多くの一流作品により、校舎建設費用を工面することができた。大正13年5月には新校舎が完成する。その後も「物を大切にする心」と「女子教育の大切さ」を説いて欧米各地を講演してまわり、各地で賞賛された。昭和22年文華女子中学校を設立、昭和23年文華女子中学校・高等学校と改称。昭和30年永年教育社会事業に尽くしたことから藍綬褒章を授与された。
東京文華高等学校の歴史をご紹介します!
本校の先駆けとなる家事裁縫研究所・日本女子実務学校設立
| 1916(大正5)年 | 東京家事裁縫研究所設立 |
|---|---|
| 1919(大正8)年 | 同所に日本女子実務学校を設立 |
第一次世界大戦で日本の経済界は一部好景気となるなか、大正5年4月1日、東京市小石川区小日向台町3丁目87番地に東京家事裁縫研究所が誕生する。
大正8年4月1日には同所に女子青年教育を目的として、「私立日本女子実務学校」を設立する。
当時、私立学校を設立するためには、創立者の人間性・経済面・経営者としての資質などにも厳しい規定が定められていたが、本校創立者の河口アイは、多くの人々から信望が厚く、教育事業への熱意などが認められ、設立が実現した。
当時日本女子実務学校では、本科、普通科、受験科、研究科、夜学科と5つの科が設けられ、普通科では国語、数学、英語、体操の他に、修身(道徳)、作法、家事、裁縫・手芸、洗濯・染色、割烹(料理)、園芸など、読み書き以外にも、女性が身に着けるべき知恵や技術を学ぶことができた。
小石川高女設立・震災にも屈しないアイの教育への情熱
| 1923(大正12)年 | 小石川高等女学校設立認可 |
|---|---|
| 1924(大正13)年 | 関東大震災 |
| 1926(大正15)年 | 第一期生卒業式 |
| 1935(昭和10)年 | 新校舎が落成(小石川区関口町) |


大正12年3月27日、「小石川高等女学校」設立認可。
同年4月10日入学考査を行い、1年生80名、2年生20名で発足する。
4月20日より小石川区江戸川町の仮校舎で授業を開始する。
7月1日から本校舎新築着手に取りかかるも、9月1日に起きた関東大震災のため、校舎建築に頓挫をきたす。
この間、授業は校長であるアイの自宅で行われ、アイは震災後の東京を多くの著名人から賛助金を賜り、新校舎再建へと奮闘する。
翌年の3月に校服、4月に校章が制定され、5月には新校舎での授業が開始された。
6月30日に新校舎が落成し、震災からちょうど1年の9月1日に移転となる。
震災から1年での再建は、アイの教育への情熱あってこそ実現したことは言うまでもない。
大正15年3月、第一回卒業証書授与式・同年4月、同窓会「千艸会(ちぐさかい)」が発足される。
昭和3年には小石川高等女学校校長河口由次(よりつぐ)により校訓が制定される。
翌年には校歌が制定され、学園として大きく発展する。
生徒増加にともない、昭和9年から新校地(小石川区関口町)にて校舎建設に着手、翌年昭和10年には新校舎が落成する。
この校地の一部は鳥尾子爵の邸宅跡で、その庭は学校の中庭として残される。
第二次世界大戦後の復興と学制改革
| 1945(昭和20)年 3月 | 東京大空襲により東京は焼け野原となる |
|---|---|
| 1948(昭和23)年 4月1日 | 学校名を文華女子高等学校と改める |
大正12年3月27日、「小石川高等女学校」設立認可。
同年4月10日入学考査を行い、1年生80名、2年生20名で発足する。
4月20日より小石川区江戸川町の仮校舎で授業を開始する。
7月1日から本校舎新築着手に取りかかるも、9月1日に起きた関東大震災のため、校舎建築に頓挫をきたす。
この間、授業は校長であるアイの自宅で行われ、アイは震災後の東京を多くの著名人から賛助金を賜り、新校舎再建へと奮闘する。
文京区から西東京の地へ西東京の地へ
| 1970(昭和45)年 | 新校舎落成(現在の西東京市西原町)移転完了 |
|---|---|
| 1970(昭和45)年 | 家庭教育寮実習開始 |
| 1987(昭和62)年 | 創立70周年記念式典挙行 |


東京オリンピック開催に合わせ、昭和39年頃に関口町の校地が3分の1割譲することが決定する。
当時理事長であった河口利加は、創立者が築き上げた文華学園を命に代えても存続させることを誓い、生徒を励ましながら新校地購入に東奔西走した。
当時土地の購入は難航が予想されたが、利加の誠実な人柄や当時の生徒たちの熱意により状況が好転し、昭和44年、現在地(西東京市西原町)に新校舎建設の基礎が築かれた。
その後昭和45年の1号館完成を皮切りに、次々と施設を拡充する。
昭和62年、創立70周年には学校施設が一通り整備され、一度は存続の危機にさらされた学園も、西原の地で見事発展を遂げる。
また、利加は移転を記念して建設された家庭教育寮にて、理事長自ら10名前後の生徒と寝食を共にし、掃除・食事・衛生・来客や電話対応などの指導とともに、生徒の個別指導を行った。
利加の厳しいなかにも生徒への優しさに溢れた人柄に、当時の生徒たちは信頼を寄せていた。
平成から現代~次の100年へ


平成になっても、学習環境整備はつづき、平成3年に全館冷暖房設備完備、平成5年に4号館完成、平成8年には人工芝コート完成・校門改修が行われる。
平成11年からは、校舎の全面改修が行われ、現在の5階建て1号館の完成、平成12年には4階建ての本館が完成する。
平成14年にはパソコン室・マルチメディア室・校内LAN敷設等の情報環境が整う。
2016年 平成28年には創立100周年記念式典が行われる。
同年、家庭教育寮が改修され、充実した住環境での実習が実現した。





